2chにて批評依頼中
◆GHLUSNM8/A

更新: 2006年12月8日 (金曜日) 15:43





    1

 女子社員たちの嬌声が、私の耳のすぐ後ろであがった。
 デリカシーのない、神経に響く甲高い笑い声。
 私は心の中で舌打ちをし、エレベーターの回数表示板を見上げた。
 三階。小学五年生くらいの少年が、ひとりで乗りこんでくる。私は腕時計に目を落とした。午後十時を回っている。三階には大手の学習塾が入っていたのを思い出した。この時間帯に帰るのは久しぶりのことだ。私が会社を出るのは、いつも深夜の十二時近くだった。
 一階に着き、ドアが開く。
「遅かったじゃねえか」
「菊地たちは先に行って、もうはじめちゃってるぜ」
 エレベーターホールに集まっていたうちの会社の男子社員数人が、私の背後の女の子たちに声をかけた。金曜の夜だ。これから飲みにでも行くのだろう。
「係長代理も、よろしかったらご一緒にどうですか? そこの角のところに新しくできたお店に、みんなで行くんですよ」
 エレベーターから降り、外へ出ようとした私に、ひとりの女の子が声をかけてきた。全員がこちらを見ている。
 どうせ、私が断るのを見越した上で、代わりに飲み代でも出してくれないかと期待したのだろう。小娘の底の浅い魂胆にうまうまと騙される私ではない。
「私の内ポケットのモノに用があるんだろう?」
 私はにやりと笑ってみせ、表に出た。彼女らの舌打ちが聞こえてくるようだった。
 駅に向かって歩く。
 強い春風が断続的に通りを吹き抜け、家路を急ぐ人々の足をよろつかせていた。
 五十歳を超えても係長代理止まりなのは、私のああいうところに問題があるのだろう。自分自身わかっていたが、この捻くれた性格は生まれつきのものだ。変えようと努力をした時期もあることにはあるが、人間そう簡単に変われるものではない。
 このまま定年まで無事に勤め上げ、退職金でどこか都会から離れた田舎に土地でも買い、畑を耕しながらのんびり暮らす。いまはそんな晩年をぼんやりと夢見ていたが、きっとその願いも叶わないだろう。
 先月、私と同期で会社に入った男がクビを切られた。
 部署もフロアも私とは違うので、挨拶程度の会話しかしたことがなく、掲示板に張りだされた辞令を見ても特になんの感情もわいてはこなかった。人の良さそうな、小太りの男だった。きっと次は、私の番だろう。
 駅前の交差点。
 信号が青に変り、人の波が駅に向かって一斉に流れる。
 横断歩道を渡らずにこのまま進めば飲み屋街だ。こんな早い時間に帰れることは滅多にない。どうせ家で私の帰りを待ってくれている人間はいないのだ。
 私は立ち止まって一瞬だけ考えたが、結局人の波に身を乗せ改札へと向かった。
 プラットホームは、帰宅する人でごった返していた。私は座席に座るために電車を二本見送り、始発を待った。私の後ろに続々と人が並んでいく。
 これが好きだった。
 私の前には誰もいず、みな整然とこの私を先頭にして、基準にして、列を作りはじめる。電車が到着しても私は悠々と席に着くことができ、後から続く人間たちが座席を求めて右往左往する光景をニヤニヤしながら眺める瞬間は、一日の疲れを忘れさせてくれた。
 愚民。彼らにはそんな言葉がピッタリだ。座りたければ一、二本待てばいいのだ。この時間帯ならば、数分待てばすぐに次の電車が来る。目的の駅に着くまでの時間立ちっぱなしなのと、ホームで数分待つのとどちらがいいか、それもわからない馬鹿どもばかりだった。
 電車がホームに滑りこんでくる。
 私は降りてくる人々をすり抜けて乗車し、悠然とドアのそばの席に腰を下ろした。バタバタと人が入り乱れる中、ひとりの老婆が私の目の前に立った。
 右手に有名デパートの大きな紙袋を下げ、背中にはナップザックのようなものを背負っている。身長が足りないのか、吊革へはつかまらず、私の顔のすぐ横の手すりを握りしめていた。八十歳くらいだろうか。手はしわくちゃで、滲みだらけだった。
 車掌のアナウンスがあり、車体が一度大きく揺れて電車が発車する。
 身動きが取れないほど車内は混み合っていた。人いきれで息苦しく、春物のコートではちょっと暑いくらいだった。
 老婆が咳き込む。
 私の周りの乗客たちは、どうやら狸寝入りを決めこんだようだ。
 だが、私は寝たふりなどはしなかった。相手が老婆だからといって、どうして気をつかう必要があるというのか。この世界、一歩表へ出れば弱肉強食である。私がいま座っているこの座席は、知恵を働かせ、一本電車をやり過ごして勝ち取った私のものなのだ。いわば戦利品だ。座りたければ老婆もそうすればいいことだろう。
 長い年月を生きてきて、それくらいの頭も働かせられない者がこの先どう社会の役に立つというのか。私が座った方がよいに決まっている。
 老婆と目が合う。私は強く見返した。
 もしそこで、老婆がわざとらしいため息でも吐いたものなら、なにか嫌味の一つでも言ってやろうと思っていたが、老婆は慌てて車内の広告に視線を逸らしてしまった。私は思わず口角を上げた。
 私はオーストリッチのアタッシュケースから写真週刊誌を取り出し、パラパラとめくりはじめた。

 電車に乗って約四十分。
 私の降りる駅に電車が止まる。
 私の後に老婆が席に座るのは少し癪だったが、しようがないことだ。
 腰を上げると、老婆が空いたスペースにすかさず尻をねじりこんだ。まあいいだろう。その席はもう、私には必要がない。
 電車から降り、ホームに立って何気なく車内に目をやったとき、先ほどまで老婆の隣に立っていた若いOL風の女が、私のことを睨んでいるのが見えた。睨むくらいなら、最初の段階で私に注意でもしてみろ。私が降りて、ドアが閉まって安全になってから目で抗議するなど、卑怯ではないか。まったく生意気な女だ。ひどく腹立たしかった。
 ホームの階段を昇り、改札を出る。
 人口十万人ほどの、典型的な郊外のベッドタウンであるこの街に、私の住むアパートはあった。昭和中期に立てられた木造二階建ての2DK。時代に取り残されてしまったような朽ちかけた外観で、砂壁に薄っぺらい合板の天井という安普請だったが、トイレと風呂場がそれぞれ独立しているのが気に入っていた。
 家賃は月四万円。スーツやカバン、タイピンや腕時計などの身につけるものには普段から気をつかい、深いこだわりもあったが、住まいにはあまり頓着しなかった。独身の五十男の家を訪ねてくる人などいないのだ。
 私はシャッターの閉まった駅前の商店街を、家に向かって歩いた。屋根付きの長いアーケードは、人通りが絶え、しんと静まりかえっていた。
 それにしても先ほど私を睨みつけてきた女の憎たらしいことといったらない。
 結婚相手の男捜しに会社に来てるような小便臭い小娘が、生意気にもこの私を睨んでくるとは。ああいう女がお気楽にOL生活を送っていられるのも、私のような中年男が日本を支えているからではないか。今度見かけたら、足でも踏んづけてやる。
 そんなこと考えながら歩いていたとき、商店街の横道から不意に現れたひとかげと、私はまともにぶつかり、軽くよろけてしまった。ぶつかった相手が、灯の消えた商店の立て看板に強く背中を打ち、俯せに倒れる。
「失礼……お怪我はないですか?」
 言いながら、私はぶつかった相手に近づいた。倒れたままで応答がない。
 襟首にボアのついた紺色の作業ジャンパーに、黄緑色のニッカポッカ。痩せた小さな体つきの七十近い老人の男だった。禿げあがった頭の右側頭部に、すこし血が滲んでいる。転倒したときに、地面に打ったのだろうか。老人は身じろぎひとつしなかった。
「あの、ちょっと……」
 もう一度老人に向かって呼びかけてみるも、返事がない。
 大変なことをしてしまった。
 私は素早く辺りを見回した。私たちの他には誰もいない。
 自分の心臓の速い鼓動の音が、ハッキリと耳に聞こえる。足がすくみ、頭に血が昇って目眩を起こしそうだ。
 こんな老いぼれひとりのために、私の人生を滅茶苦茶にされてたまるか!
 十メートルほど先にある居酒屋から、笑い声が漏れて聞こえてきた。客が店から出てくる気配。逃げるならいましかない。
 手に持っていたアタッシュケースを胸に抱え、走り出そうとした瞬間、
「ひどいじゃあないか。なあ、おい。逃げようとするなんて、さ」
 うつぶせに倒れたままの老人が、そのままの姿勢で笑った。頭から水を浴びせられたように、全身から汗が吹き出した。体が硬直して動かない。
「私は、逃げようなんてしていない」
 かすれたような声で私は言った。
 ゆっくりと緩慢な動作で、老人が起きあがる。自分の頭に手をやり、手のひらについた血に目を落としてにやりと笑った。
「血だ」
 私の顔を覗きこむようにして、老人が言う。
「それほど、たいした怪我ではないようには、見える」
「お前さんはお医者様かい?」
「そうではないが」
「なら、勝手なことは言うもんじゃあない。頭を打っちまったら、一応は病院で診てもらわねえとな。脳内出血であとからポックリなんてことになったら、大変だ」
 ニッカポッカについた汚れを払いながら、老人が言った。
「いくらだ、言ってくれ」
 私はスーツの内ポケットに手を入れ、老人に言った。多少の金なら持っている。ここで名刺などを要求され、渡してしまったら終わりだろう。後からどれだけつきまとわれか知れたものではない。この場で解決しなければ。私の頭はめまぐるしく回転していた。
 老人はそれには答えずに、
「火はあるかい?」
 煙草をくわえて一歩近づいてきた。
 私は反射的にコートのライターに手を伸ばし、差し出した。居酒屋から数人の客が出てきて、私たちとは反対の方向に向かっていく。
「ほう。こいつはいいライターだ。あまり、こういう高価なものに縁がない儂にもわかるね」
 純銀製のデュポン。私の五十歳の誕生日に、息子が贈ってくれたものだった。外資系の商社に勤めており、いまは南米にいるはずだ。デュポンに添えられていたメッセージカードは、いまも私の財布の中に大事にしまってある。
「金はいらんから、このライターをくれ。それですべてチャラにするってのはどうだい?」
「それは困る。いや、そんなものはせいぜい三万もしないだろう。五万。五万出すから、現金でどうだ? いまは三万しか持ち合わせがないが、ちょっと行った先のコンビニですぐに降ろして渡す。いますぐ渡す」
「五万、ね」
 デュポンを手のひらでもてあそんでいる老人に、私は早口でまくし立てた。
 老人はちょっと考えるそぶりを見せたが、すぐに、
「五万よりも、このライターの方がいいな。気に入った」
「それじゃ、七万だ。いや、十万円出そうじゃないか。同じライターが三つも買えるぞ」
「どんどん値がつり上がっていくのう。放っておいたら、いくらでも出しそうじゃないか」
 笑いながら老人が、
「それだけ大切なものってわけかい」
 ニッカポッカのポケットに素早くライターを入れる。
「ちょっと待ってくれ」
 駄目だ。完全に主導権を握られてしまった。こんな死に損ないに、なんてざまだ。やはり放っておいて逃げるべきだったのだ。運動はあまり自信はないが、棺桶に片足を突っこんだ老人の足なら追いつけはしないだろう。完全に私の判断ミスだ。情けない。
 どうせ、ホワイトカラーである私よりも優位に立つことができたこの状況を楽しみ、ここぞとばかりにいたぶろうという魂胆なのだろう。もしそうなら、老人のこのいたぶりを少しの間我慢すれば、金で解決できるはずだ。老人も私を虐めることに飽きれば、金がほしくなるに決まっている。
「猫は好きかい?」
「え?」
「猫だよ、猫。にゃーって鳴く、猫」
 いったいなんの話をしているのだ。
「明日からしばらくの間、東北の方へ仕事に行かなきゃならねえんだ。義理のある親方さんからお声がかかっちまってね」
 独り言のように喋る老人の顔を、私はマジマジと見つめた。なにを言いたいのか、まったく理解ができない。私の思考を混乱させる目的なのだろうか。
「ライターを返してほしかったら、ひとつ、頼みを聞いちゃくれないかい? 大切なものなんだろ?」
 ニッカポッカのポケットを、指先で軽く叩く。
「頼み、とは」
「うん、こいつさ」
 老人がジャンパーのボタンをひとつ外した。
 大きな猫の顔が、ひょいっと外に飛び出してきた。
 先ほどまでジャンパーに猫が入っているような膨らみはなかった。それとも私が気がつかなかっただけなのか。いや、もし胸に猫を入れていたのなら、俯せに倒れたときに潰れてしまうだろう。私は混乱していた。
 猫と目があった。
 不細工な猫だ。目やにが溜まった右目は、白く濁って見えた。
「その猫が、なんだって言うんだ?」
「鈍いね」
「ハッキリ言ってくれないか」
「預かってほしいんだよ。儂が戻るまでの間」
「それは……」
「なら、ライターだ」
「それは困ると言ったじゃないか」
「儂も困ってるんだよ。あんたにとってライターが大切なものであるのと同じで、こいつも儂にとっては大事な奴でな」
 老人が猫の頭を撫でた。
 しゃがれた声で、猫が大きく鳴いた。

 

 

つづく

 

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