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CHAPTER 001 : 裏路地 [ 縦書きバージョン ]
更新: 2007年1月7日 (日曜日) 17:30

 

 

     1

 勝ち目がないのは、最初に目があった時点でわかっていた。
 それでも引かずに一歩前へ踏み出したのは、単純につまらない意地だった。
「クリーニング代だ」
 横向きに地べたに這いつくばったままの俺に、男がなにか紙のようなものを数枚投げてよこした。
 紙幣《かね》だ。
「どこも怪我はさせてないはずだ。そいつで足りるだろう?」
「コートの袖が、すり切れちまってる」
 男がちょっと笑ったようだった。街灯を背にしているので、表情はよく見えない。
「いまはそれしかないんだよ。新しいのを買ったら、連絡してこい」
 俺のコートの内ポケットに、なにか押し込みながら男が言った。不用意に近づいてきた男の襟首をつかもうと体を少し動かし、横になったまま体勢を整え、飛び起きようとした瞬間、
「まだまだ元気があるじゃないか」
 男のにやけた声が耳のすぐそばでし、同時に、首筋になにか重いものがのしかかってきた。膝だ。痛みはないが、体が動かない。
「この街へはなにしに来たんだ?」
 俺を覗きこみながら言う。顔の近さに困惑し、首を逸らそうとしたが動かすことができない。俺の心をすべて見透かすような、にやけた目。対峙したときに、この目にたじろいだ自分に腹が立ち、頭に血が昇ったのだ。
「あんたになんの関係があるんだ」
「別に……ただの興味さ。怯えて、なにかに追われて逃げてきたみたいな顔して歩いてるお前が、気になっただけだ」
 逆だ。逃げてるんじゃなく、追って来たんだ。言いそうになって、俺は口をつぐんだ。
「そんな顔して歩いてると、妙な言いがかりをつけられて、警察にしょっ引かれるぞ。無精髭くらいは剃れ」
「好きで伸ばしてんだ」
「口の減らないやつだなあ、お前は」
 ふっと、首のあたりが軽くなった。
 男は火のついたまま路面に転がっている煙草を拾い上げ、
「じゃあな」
 俺の頬を軽く叩き、路地の出口へ向かって去っていく。男の手のひらの暖かさに少し戸惑い、舌打ちをした。
 仰向けになり、ポケットの中でグシャグシャに折れ曲がってしまった煙草をくわえ、火をつけた。口の中がカラカラに乾いているせいか、やけに辛い。
 狭い路地を、コウモリが飛んでいる。
「お兄さん、大丈夫かい」
 中年の女。いつの間にか、俺の足もとに立ってこちらを窺っていた。
「こんなところで寝てたら、風邪引いちまうよ。立てるかい?」
 安っぽいチャイナドレスを着ている。どこかのスナックのママといった感じだ。
「放っておいてくれ」
「かわいくないねぇ」
 路面に散らばった紙幣を拾いあつめながら、女がクスクスと笑う。
「俺のじゃない」
 拾いまとめた紙幣を俺のポケットに入れようとした女の腕をつかんだ。
「まぁいいじゃないのさ。取っておきなよ。ほら、立ちな」
 つかんだ俺の手を優しくほどきながら、女が肩に手を回して抱き起こそうとする。俺は肩を動かして女の手を振りほどき、身を起こして片足立ちになった。腰に痛みが走る。地面に投げられ、腰から背中にかけてしこたま強打したのだ。一瞬息が詰まりそうになった。
「うちの店においで。なにか温かいもんでも飲んだほうがいいよ」
「いいから、放っておいてくれよ」
「あんたね、田崎さんに仕返ししようなんて考えちゃ駄目だからね」
「あの男のこと、知ってるのか?」
「知らなかったのかい、あんた」
「なんだよ。有名人なのか?」
「とにかく店においで」
 言いながら、女は路地の入り口にある、スナックに向かって歩いていった。『みずき』。薄汚れた、品のない紫色の立て看板。ドアは開けたままで、中からは古い歌謡曲が外に漏れていた。
「寒いからね。ドア閉めてちょうだい」
 店の中を覗くと、客は中年の肉体労働者風の男がカウンターの端の方で酔いつぶれて寝こんでいるだけだった。ボックス席もない、人が8人も入れば満杯になってしまうような小さな店だ。なにか肉を煮込んだようないい匂いがする。
「さっきの野郎のことを聞かせてくれよ」
 俺はスツールに腰を掛け、短くなった煙草を灰皿の底で押し消しながら言った。女はそれには答えず、
「赤味噌、食べられるかい?」
 みそ汁をお椀によそい、俺の前に差し出す。路地の暗がりではわからなかったが、声の割には老けていた。六二、三歳か。厚いファンデーションの上に、マジックペンで描いたようなわざとらしい眉毛が乗っている。
「ママさんよ」
「いいから、お飲みよ。暖まるよ」
「こんなのいいから、さっきの田崎とかいう奴のことを聞かせてくれよ」
「こんなのって、言ってくれるじゃない。うちのみそ汁、評判いいんだよ」
 俺を睨みつけながら、いたずらっぽく女が笑う。
「客なんかいないじゃねえか」
「もう看板だからね。さっきまで賑やかだったんだ、これでもね」
 みそ汁の具はしじみだった。一口すする。寒さのせいでコチコチになっていた体が、カーッと暖まっていくのがわかった。もう十二月も終わろうとしている。女がまたクスリと笑った。
「ママ、お勘定……」
 店の隅で酔いつぶれていた男が目を覚まし、ろれつの回らない声で言う。
「さっきいただいたよ」
 立ち上がろうとしてよろけた男を、カウンターから出て来た女がそっと支え、
「一人で帰れるかい? タクシー呼んであげようか?」
 乱れたジャンパーを整えながら入り口まで見送る。男もなにか言っているようだが、聞き取れないほど泥酔している。
「ごめんね、すぐ戻るから待っててよ」
 俺に声をかけ、女と客の男が出て行った。ドアの外で嬌声が上がる。
 俺は舌打ちをした。女に向けてなのか、自分にたいしてなのかはわからなかった。いまのこの状況にたいしての舌打ちなのかもしれない。
「この街の人じゃないでしょ」
 不意に、店の奥から若い女が現れた。
「東京の人?」
 チャイナドレスは着ていず、安そうな白いファーコートにきつめのジーンズというラフな格好だ。化粧っけはほとんどなく、店内の落とし気味の照明の下でも、抜けるような肌の白さが際だって見えた。この店には不釣り合いな感じの、ちょっといい女だ。
 俺は女から目を離し、先ほどついた手の甲の傷に唇をあてた。チクリと染みる。
「田崎さんとなにがあったの?」
「なんなんだよ、さっきから。田崎って野郎はそんなに有名人なのか?」
「有名人っていうか……街《ここ》に住んでたら、知らない人はいないんじゃないかなあ」
「なにやってる奴なんだ?」
「揉め事の解決屋さん」
 大人びた見た目とは違い、喋り口調からするとまだ若そうだ。二十歳を超えたばかりくらいだろうか。
「やくざ者か?」
「やくざも道をあけていく人」
 トレンチコート風の短いジャケットの下に、ノーネクタイのスーツ。このくそ寒い季節に、シャツのボタンをはだけさせていたのが癪に障り、苛つかせた。少したれ目で、にやけた目の周りには深い笑い皺が刻まれていた。俺の頬を軽く叩いて去ったときの男の手のひらのぬくもりと、やわらかさを思い出し、ちょっと顔をしかめる。
 客と出て行った女が戻ってきた。
「知花ちゃん、寒いから気をつけてお帰りよ」
「うん。お大事に、ね」
 俺の肩をぽんと叩き、知花と呼ばれた女が店を出て行く。深夜の二時を回るところだった。
「どう、暖まったかい?」
 先ほどの肉体労働者風の男のグラスと灰皿を片付けながら、
「観光客には見えないけど、この街にはなにしに来たんだい?」
「取り調べかよ」
「どこか泊るところあるの?」
「さあね」
「いったい、なにが原因で喧嘩になったんだい?」
「つまらねえことだよ」
「どうせ、あんたから絡んだんだろう?」
 女が笑う。
 大きくは外れてなかった。
 吸っていた煙草を道に放り、それを注意された。そんなつまらないことが原因だった。
「まぁ、忘れることが一番だね」
 女が店の有線を切り、厨房の元栓を締めて回る。俺はみそ汁の勘定を払おうとコートの内ポケットに手を突っこんだ。財布の他に、なにか硬い紙のようなものが指に触れる。
「弁護士か、あの野郎」
 田崎弁護士事務所。男の名刺だった。
「泊るところがないなら、うちに泊ってくかい? ここの二階があたしの住みかなんだよ」
「やめておくよ」
「なにも取って食おうなんて思っちゃいないから、安心おしよ」
 俺は答えず、財布から千円札を一枚出してカウンターに置いた。スツールから腰を外したときに、また鋭い痛みが腰に走った。顔が歪みそうになったが、歯を食いしばって我慢をする。女に気取られたら、またチクチクと小言を言われそうだ。
「まだこの街にはいるのかい?」
「さあ」
「またおいでよ」
 女の声を背中に聞きながら、店の外に出た。肌を刺すような冷気が、瞬時にして体を包んでくる。鉛色のぶ厚い雲が、夜空を覆っていた。

 

つづく

 

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