吉川真樹web - ハードボイルド・オンライン小説


CHAPTER 002 : 皺 [ 縦書きバージョン ]
更新: 2007年1月7日 (日曜日) 17:31



     2

 なにかを叩く音で目が覚めた。
 首を起こして車の外に目をやると、藍色の腹掛けをした初老の男が、窓越しに俺に向かってなにか言っているのが見えた。節くれだった太い人差し指で、忙しなく車の窓ガラスを叩いている。俺は倒していたリクライニングを元に戻し、窓を半分開けた。
「ここに駐められちゃ困るんだよ。ちょっと車をどかしてくれ」
 右手に、なにか網のようなものを持っている。どうやら、干物の天日干し用の網だ。助手席側の海岸沿いの歩道に、網の上に整然と並べられた魚が見えた。なんの魚なのかはわからないが、道路を挟んだ向かい側にある干物屋のものなのだろう。男の腹掛けに書かれた『大内屋』という屋号の錆びた看板が、朽ちかけた店にへばりついている。
 俺は男に軽く顎を引いて頷き、エンジンをかけて車を出した。エアコンの暖房を切って寝たせいか、体中が凝り固まっているのがわかった。
 ダッシュボードの携帯電話に目をやる。午前八時十分。メールも着信もなかった。
 干物屋から数百メートルほど離れた先の公園の入り口あたりで車を停めた。後部座席のバッグの中からハンドタオルを出し、暖房のスイッチを強に入れてエンジンをかけたまま降りる。海岸に沿った幹線道路。車通りはあまりなかった。海からの強い風に、一瞬よろけそうになった。
 公園の奥まったところにある公衆トイレに向かって歩く。風は冷たいが、陽射しが暖かく快かった。きれいに整備された大きな公園だが、時間が早いせいか利用者はひとりもいない。公園の中央に、なにかを模した青銅の巨大なモニュメントが鎮座していた。芸術には興味が無く、それがなにを意味しているのかは俺にはわからなかった。バブル期に造られた公園なのだろうか。人寂しい、ひなびたこの街にはそぐわないほど、無駄に金をかけている。
 トイレで用を足し、顔を洗おうと前屈みになったときに、腰に違和感を感じた。
 昨夜、田崎という男に投げられたときに、地面に叩きつけられた箇所だ。俺はトイレから出ると、体を動かして他に痛む部分がないか確認した。腰以外は大丈夫のようだ。他には、右の手の甲に擦り傷があるくらいだったが、コートの袖はささくれ立って破れていた。
 舌打ちをする。安くないコートだ。いまの俺の持ち物の中では、車以外で一番値の張るものだった。
 煙草をくわえ、海から吹きつける風に背を向けて火をつける。ニコチンが全身に回っていくのがよくわかった。コーヒーがほしいところだが、自販機は見あたらない。
 俺はタオルをジーンズの尻ポケットに突っこむと、砂浜へ続く階段を下りていった。波打ち際から少し離れた場所に、六〇センチほどの大きな岩を見つけ、ゆっくりと腰を気づかいながら座る。
 海鳥の群れが、すぐそばのコンクリートで固められた河口で、日向にあたっていた。アホウドリだろうか。海のない街で生まれ育った俺には、わからなかった。
 煙草を二本吸い終えるまで、頭の中を空っぽにし、激しく打ち寄せる波をただ眺めていた。
 三日前。
 俺のアパートの部屋の郵便ポストに、絵はがきが入っていた。差出人の名前はなく、消印はこの街のものだった。
 白い大きな灯台の写真。記憶の奥底にある風景。
 聡美の顔がすぐに浮かんだ。
 聡美とは四年間、一緒に暮らした。笑うと右頬だけにえくぼができ、もう片方の頬にもえくぼをつけてバランスを取ろうと、風呂に入るたび、鏡に向かって真剣な顔をして爪先で左頬を押しているような、ちょっと間の抜けたところのあるかわいい女だった。
 一緒に生活した四年の中で、たった一度だけ、一泊二日の慌ただしい旅行をこの街へしに来たことがある。
 当時の俺は仕事が忙しく、休みがなかなか取れずに聡美を放ったらかしにしていた。その罪ほろぼしのつもりだったが、寂しい思いをさせてしまっていることの言い訳をするために、俺は聡美を旅行に連れて行ったという既成事実を作りたかっただけなのかもしれない。
 そのころの俺は、写真があまり好きではなかった。観光地を回りながら、パシャパシャとシャッターを切ることが恥ずかしかったのだ。それを知っていた聡美は、旅行の間はほとんどカメラをバックから出さなかったが、二日目に街から離れた岬にある白い灯台へ足を伸ばしたときだけは、ふたりで並んだ記念写真を撮ることをかなり強引に要求してきた。俺自身は気にもとめていなかったが、結局四年の間で、ふたりで撮った写真はその一枚限りであった。
 聡美は、ことあるごとにそのとき旅行の思い出を楽しそうに語ったが、そのたびに俺には、もっと一緒にいたい、という彼女の心の声がチクチクと胸に刺さってくるようで、旅行の思い出話がはじまると自然と顔をしかめるようになっていた。別れる前の半年間、聡美の右頬のえくぼは、俺の前にほとんど姿を見せなくなっていた。
 彼女が俺の部屋から黙って消えてから、もう二年が経とうとしている。
 俺は岩から腰を上げ、一度だけ大きく背伸びをした。
 先ほどよりも、腰の違和感は和らいでいた。
 車に戻ろうと足を一歩踏み出したときに、砂浜に転がった二本の煙草の吸い殻に目がとまった。俺は舌打ちをし、そいつを拾い上げるとコートのポケットに落としこんだ。
 エアコンの暖房はつけたままだったので、車の中は暑いくらいだった。
 どこへ向かうともなく、車を出す。
 なにから手をつければいいのか、どうすれば聡美にたどり着けるのか。考えるともなしに漠然と思いめぐらせてみたが、なにもまとまらなかった。
 しばらく海沿いの曲がりくねった道路を走り、大きく迂回しながら街の中心部へ向かった。小さな街だ。夏は首都圏からの海水浴客で賑わうこの街も、いまはひっそりと静まりかえっている。
 駅から少し離れた目抜き通り沿いに喫茶店を見つけ、俺は車を停めた。
 開店直後らしく、従業員がカフェテラスの準備をきびきびとしている。
 俺は店に入ると、窓際の席に腰を下し、マンデリンを注文した。客は俺ひとりだけのようだ。BGMもなく、店の奥の方からカチャカチャという食器のふれ合う音だけが聞こえてくる。
 窓の外を時折、観光客ふうの家族連れや夫婦が通っていった。年の暮れをこの街で過ごそうという家族連れも多いのかもしれない。あと十日ほどで、今年も終わろうとしている。
 コーヒーを半分ほど飲んだあたりで、通りの向うの歩道に見覚えのある男の姿を見つけた。
 トレンチ風の短いコート。片手を上げながら軽快に道を走って渡る。男は俺に気がついていないようだ。そのまま一直線に喫茶店へ向かってくるのを見て、俺は顔を背けた。
 窓ガラスを叩く音。
 窓の向うで、田崎が白い歯を見せて笑っていた。
「偶然かい? それとも、俺が来るのを知っていて待ってたのか?」
 田崎は俺の向かいの椅子に腰を下ろし、探るように首を傾げ、大袈裟な仕草で顔を覗いてくる。いちいち芝居がかった男だ。
「せっかくの気持ちのいい朝に、会いたい男じゃないのは確かだな」
 俺は残りのコーヒーを飲み干して言った。
「意外と、根に持つタイプなんだな」
「関わりたくないだけさ」
 田崎が笑う。
 人懐こい笑顔だ。この笑顔のまま、俺を地面に叩きつけた。
「俺はここの水出しコーヒーが好きでね。前の晩から仕込んでおいて、ちょうどいまくらいの時間に、美味いのが抽出されてるんだ。そいつをすすりながら、ゆったりと書類に目を通したり、人生について考えたりするのが毎日の日課さ」
 店のウェイターが、田崎の前にコーヒーを運んできた。テーブルにカップを置こうとするのを田崎は片手で制し、外のカフェテラスの方を指さす。ウェイターが軽く会釈をし、外のテラスに出てテーブルにコーヒーを置く。
「テラスの方へ行かないか? この店、冬場は暖房が効きすぎててね。頭がボーッとしてくるんだ」
「あんた、街ではちょっとした有名人なんだってな」
「お前に吹き込んだのは、『みずき』のママか? 店先から心配そうに見てたもんな」
「柔道でもやってんのか?」
「俺とは関わり合いたくないくせに、興味はあるんだな」
 深い笑い皺。朝の光の下で見ると、彫刻刀ででも彫ったように幾本も刻まれていた。顔は、やや焼けて赤っぽい。酒焼けとは違うようだ。
「学生時代に、ちょこっとだけかじった程度さ」
「弁護士の割には、喧嘩慣れしてるな」
「お前がいきなり殴りかかってきたのを、避けただけだよ」
 何歳くらいなのだろうか。年齢はちょっと推しはかりかねた。四十を超えているのは確かだろう。短めにカットした髪の生え際に、白いのが何本か混じっている。
「わからないな」
 顎を引き、俺の目を覗きこむようにして田崎が呟く。
「いったい、なにに追われているんだ? 警察か?」
「人生」
「気障だな」
「あんたの言葉を借りたまでさ。言ってみて、歯が浮いたよ」
「二十七ってとこか」
「俺のことは放っておいてくれ」
「散々人のことを詮索しておいて、そりゃないじゃないか」
 また田崎が笑った。よく笑う男だ。中学のころに飼っていた、小次郎という名のゴールデンレトリバーに似ている。ふと思った。
「人を捜してる」
 俺は煙草に火をつけ、田崎から顔を逸らし、窓の外に視線を向けながら言った。人の心の奥まで見透かそうとする田崎の目を、無意識に避けたのかもしれない。いつの間にか、店内にはクラシックのBGMが流れていた。
「女か」
 束の間の沈黙の後、田崎が言う。俺の視線の先を追うように、田崎も外に目をやっている。俺は答える代わりに、カップの底に残ったコーヒーを呷った。
「俺の感はよく当たるんだがなあ。今回ばかりは見当違いだったか」
「女で当たってるよ」
「そのことじゃなく、お前がこの街に来た理由のことさ。俺はてっきり、誰かに追われてるんだと思ってたよ。人捜しだったら、俺の出る幕じゃないな」
「あんた、街の顔役なんだろう?」
「そんな大層なもんでもないさ。それに、俺には関わりあいたくないんだろ?」
「コートの貸しがあるのを思い出してね」
「やっぱり根に持つタイプなんだな」
 俺はコートのポケットの中から、くしゃくしゃになった紙幣を出してテーブルに置いた。昨夜、田崎が俺に投げてよこした金だ。数えていないから、何枚あるのかはわからない。多分五万円ほどだ。小額紙幣も混じっている。
「こいつは返しておく」
「財布の中が空だったのをちょうど思い出したよ」
 紙幣の皺を伸ばしながら、田崎が眉を上げて笑った。やはり小次郎に似ている。俺はもう一度思った。
「夜の八時くらいに、携帯の方に電話をしてみてくれ。その頃には俺も手が空いてる。名刺、持ってるだろう?」
「手を貸してくれるのか?」
「詳しく聞いてみないとなんとも言えんが、根に持って地獄の底まで追ってきそうだからな。聞くだけ聞くよ。携帯は持ってるな? お前の番号を教えておいてくれ」
 スーツの内ポケットから洒落たステンレス製のボールペンを出し、田崎が言う。俺は頷き、テーブルのペーパーに番号と名前を書いて渡した。
「芹沢、ね。下の名前はなんていうんだ?」
「必要ないだろう」
「俺はお前に事務所の住所から電話番号、フルネームまで全部晒したぜ?」
「太郎」
 俺は会計票をつかんで椅子から立ち上がりながら言い、レジに向かった。
「まぁ、それでもいいや。芹沢太郎な」
「本名だ。ついでにいうと、年齢は当たってる」
「やっぱり俺の人を見る目は確かだな」
 田崎の低い笑い声を後に、喫茶店を出た。
 カフェテラスの水出しコーヒー。
 田崎が来るのを、テーブルの上でぽつんと佇んで待っていた。

 

 

 

つづく

 

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