吉川真樹web - ハードボイルド・オンライン小説


CHAPTER 003 : スウェード
更新: 2007年1月7日 (日曜日) 17:32


    3

 紫色の立て看板には、灯は入っていなかった。
 ドアノブに手をかけてみる。鍵はかかっていない。
 店内の照明はすべて落ちていた。暖房が入っていないためか、店の中は外の寒さとあまり変わらず、空気が凍てついていた。カウンターの奥にあるドアが半開きになっていて、そこからうっすらと灯りが漏れている。俺はスツールに腰をかけ、煙草をくわえた。灰皿が見あたらない。
 煙草をカウンターに放り、腕時計に目を落とした。もうすぐ十八時になろうとしているところだ。
 怒声。店の二階で人が入り乱れるような音がした。ママの声もかすかに聞こえる。
 俺は腰を浮かせて、カウンター奥のドアを覗きこんだ。階段を降りてくる音がし、ドアから若い男が現れる。
「なんだ、あんたは」
 目があった俺に一瞬たじろぎ、男が身構えるような仕草をする。髪の毛が長く、女のような端正な顔つきをしていた。
「客だよ」
「ふうん、そうかい」
 警戒しながら、俺の背後をすり抜けようとする男の肘のあたりをつかんだ。男が小さく呻く。強くは握っていない。
「離せ」
「ママに、なにをした?」
「あんたには関係ないだろ」
「それは俺が決めるよ」
 つかんだ親指に少し力を加えた。男の顔が歪む。顔だけでなく、腕も女のように細かった。階段を降りてくる音。ドアから覗いたママの顔が、俺を見て一瞬固まった。
「あんた、昨日の」
「開いてたから勝手にお邪魔したよ」
「見りゃわかるよ」
 ママが店の灯りのスイッチを入れた。赤いフードをかぶった吊り照明に、灯がともる。
「こいつは?」
「馬鹿息子だよ、あたしの」
「そうか。行かせて大丈夫か?」
 少し沈黙したあとに、ママが小さく頷く。俺はつかんだ手を離した。男が鋭い舌打ちをし、腕をさすりながら店から出て行く。
「余計なことして悪かったよ」
「別にいいんだよ」
 カウンターに転がっている煙草をくわえた俺に、ママが灰皿を差し出す。昨日のチャイナドレス姿ではなく、毛玉だらけの黒いスウェットの上下という格好だった。化粧もほとんどしていない顔は浮腫んでいて、ひどくやつれて見えた。
「なんか飲むかい」
「水かウーロン茶があったら頼む」
「あいよ」
「ここ、開店は何時からだっけ?」
「一応七時ってことになってるけどね、まちまちだね」
 ママはグラスにウーロン茶を注ぎ、俺の前に置くと、
「ざっとでいいから、カウンターを拭いてくれるかい」
 水で濡らして絞ったダスターを放って言う。
「この店は、客をこんなふうにして使うのか?」
「なにが客だよ。看板に灯はついてたかい? ああ、そうだ。それが終わったら、外の看板のコンセントを入れて来ておくれよ」
 俺はカウンターを拭きながら、ちょっと肩をすくめて見せた。ママがアップにした髪の毛をほどきながら、店の奥に消える。
 俺はカウンターを拭き終えると、ダスターを厨房に放って店の外に出た。立て看板の足に巻きついている電源コードを、外壁のコンセントに差しこむ。
 店に戻ろうとドアに手をかけたとき、路地の入り口にある街頭のところに、先ほどのママの息子がこちらに背を向けて立っているのに気がついた。柱の陰になってわからないが、もう一人誰か男がいるようだ。長いコートの裾が、見え隠れしている。
 息子の方は、携帯を耳に当ててなにか喋っているが、十メートルほど離れているので話し声までは聞こえない。
「ありがとうね」
 店内に戻ると、チャイナドレスを着たママがガスコンロに鍋をかけながら言った。昨日のドレスとは柄が違うものだったが、安っぽさは変わらない。
「そういうドレスは、どこで買ってくんだ?」
「これかい? 水商売用のね、洋服の専門店が小田原の方にあるんだよ」
「なるほどね」
「あんまり、よくないかい?」
「よくねえな」
「ずいぶんはっきり言うね、この子は」
「今度は客をこの子扱いか」
「まだ開店前だよ」
「看板に灯は入ってるぜ」
「ああ言えばこう言う」
 ママが小さく笑った。
 俺はウーロン茶を飲み干すと、グラスの氷を指でつまんで口に放りこんだ。右の奥歯でかみ砕く。暖房を入れたのか、暖かい空気がどこからともなく流れてくる。
「酒、飲るかい?」
「いや、ウーロン茶を」
「かなり飲みそうな感じはするけどねえ。酒は駄目な口なの?」
「車なんだよ」
「少しくらい飲んだって大丈夫じゃないの」
「飲みたいのはママの方なんだろ?」
「まあね」
 酒棚の隅のフォアローゼスを手に取り、
「ちょっとだけ、ね」
 ロックグラスに注ぎながらママが独り言のように呟いた。六十過ぎのスナックのママが飲む酒にしては、洒落ている。
「自分の店でなに遠慮してんだ」
「酒でね、失敗したことがあってさ。あまり一人では飲まないようにしてるんだよ」
 俺もだった。
 聡美と別れることになった直接的な原因は別のものだが、結局は俺が酒に溺れたことがきっかけで、二人の生活は変わってしまった。
 大学を中退し、当時アルバイトをしていたデザイン事務所に就職した俺は、はじめて手がけたスポーツ用品メーカーの仕事を成功させ、同僚たちと新宿の飲み屋で打ち上げをした。しこたま飲んだ勢いで入った風俗店。聡美はレイという源氏名で働いていた。
「俺の初恋の人と同じ名前だ」
「なんだか嬉しい」
 一緒にシャワーを浴びながら、そんな他愛のない会話を交わしたのを憶えている。
 大学に入るまで山梨の実家で暮らしていた俺は、風俗の経験がまったくなく、緊張のせいで果てることはできなかった。安作りのベッドに半裸で腰を掛け、うなだれていた俺を、聡美は後ろからそっと抱きしめてくれた。そのときの肌の柔らかさとぬくもりは、いまでも忘れられない。帰り際に渡されたレイと書かれた派手な色の店の名刺に、聡美の本名と携帯電話の番号が書かれていた。
 聡美と二人で暮らしはじめたのは、それからすぐのことだった。
 店のドアが開き、白いダウンジャケットを着た知花が入ってきた。
「あれ、どうしたの?」
 カウンターの俺を見て、知花が眉を上げる。
「いちゃ悪いか?」
「別に。田崎さんでも待ってるの?」
「ここで働こうと思ってね。面接中さ」
 ママが肩を動かしながら笑った。知花はなんだかよくわからないといった表情のまま、店の奥に消える。
「私もちょっとお化粧してくるからさ、鍋が煮立ったら、弱火にしてちょうだいね」
「ほんとに俺を雇うつもりじゃないだろうな」
「トラブルメーカーのあんたなんかを雇ったら、白髪が増えるどころか、髪の毛が全部抜け落ちちまうよ」
「髪の心配するくらいなら、もうちょっと上等なドレスを買ったらどうだ」
「そんなによくないかねえ」
 チャイナドレスの腰のあたりをつまんで目を落としながら、ママも店の奥に消える。
 俺はウーロン茶を一口呷ると、煙草をくわえ、カウンターに置いてあったブックマッチを擦った。吐いた煙がある一定の高さにとどまり、淀みながらうっすらと層を作っていく。煙草を吸うようになったのは、五年ほど前からだった。仕事で大きな失敗をし、酒にどっぷりと溺れていく中で、煙草の味も覚えた。
 遅い反抗期。
 最初のうちは聡美はそう言って笑っていたが、会社を何度も無断欠勤した挙げ句に首になり、何日も家を離れるようになると、もうなにも言わなくなった。
 思えば、それまでの俺の人生は運が良すぎるほど順調だった。
 失敗の味をはじめて味わったときは、誰でもそんなもんさ。会社の上司は落ちこんで鬱いでいた俺を飲み屋に連れ出し、肩を叩いてくれたが、結局立ち直ることはできず、俺はそのまま堕落していった。
 仕事を失ってしばらくの間は働いて貯めた貯金を切り崩し、スーパーで働く聡美の金でなんとか生活をしていたが、毎晩飲み歩き、俺がクラブの女に入れこむようになるとそれも続かなくなった。
「そろそろ充電は終わったかな」
 普段、あまり俺に対して意見を言わない聡美が作り笑いをしながら言ったのは、それだけ生活資金に余裕がなかったからだろう。家賃を常習的に滞納しはじめ、回収業者が部屋へ頻繁に訪れるようになったころ、聡美はスーパーのパートのほかに深夜の弁当工場で掛け持ちするようになっていた。
「お金が、もう続かないよ」
「もっと割のいい仕事があるだろ、お前には」
 言ってからはっとなったが、一度口から出た言葉を消すことはもうできなかった。重苦しい空気が流れ、それに耐えきれなくなった俺は硬直した聡美を残して街へ飲みに出た。
 明け方に戻ったとき、タンスの中の聡美の衣服とともに、彼女の姿は部屋から消えていた。もう、二年も前のことだった。
 薄いピンク色のドレスに着替えた知花が奥から現れ、
「もう、鍋煮立ってるよ」
 厨房のガス台の火を止めた。店にカレーの香ばしい香りが立ちこめている。俺はカウンター越しに鍋を覗いた。大きい寸胴の鍋に、薄茶色のカレーがぼこぼこと沸騰していた。
「チキンカレー。ママのすごく美味しいんだよ」
「いろんなもの出すんだな、この店は」
「軽食だけしに来るお客さんも多いの、うち」
「一皿くれよ」
「まだご飯炊けてない」
「じゃあ、ルーだけでいいさ」
「炊けてからにしなさいよ」
 言いながら知花が店の有線のスイッチを入れるのと同時に、店のドアが少し強めに開かれた。足首くらいまである長い皮のコートに、先のとがったエナメルの靴。
「ママは?」
 オールバック風に髪を撫でつけた若い男が、神経質そうな声で知花に言った。横目で俺をちらりと見る。鋭く、暗い目だ。こういう目をした男は、夜の街で飲み歩くようになったころによく見かけた。
「まだ、二階にいます」
 男とは目を合わせずに、シンクでグラスを洗いながら知花が言う。少し緊張しているようだった。
「呼んできてくれるかな。それとも、俺が行こうか?」
「もう、降りてくると思いますから」
「そうかい。じゃあ待つよ」
 俺とひとつ席を挟んで、男がスツールに腰をかけた。スウェードの手袋を片方だけ脱ぎ、コートのポケットから赤ラークを出して唇に挟む。俺は手元のブックマッチを男の方へ滑らせた。脱いだ手袋に当たり、男の膝のあたりにぽとりと落ちる。
「悪いね」
 俺はウーロン茶のグラスを傾けながら言った。男は目を細め、落ちたブックマッチを黙って見つめている。年齢は、俺とそう変わらないだろう。
「ありがとうよ」
 マッチを手に取り、俺の方へ煙草の煙を吹きつけながら男が言う。俺はちょっと笑って見せたが、男の顔には明らかに怒りの色が浮いているのがわかった。まだチンピラかなにかだろう。昨日の田崎の笑顔の迫力には、到底及ばない。
「飯はまだ炊きあがらないかい?」
「あと七分」
 知花が一瞬俺の方を睨んで、店の奥に消えた。開いたままだったドアを、後ろ手に閉める。小走りに、階段を上っていくヒールの音が聞こえた。
「お兄さんは、ここのお客さんか?」
「今日から働くことになってね」
「ほう。地元の人間じゃないよな。どこから流れてきた?」
「それがよく憶えてないんだ。浜に打ち上げられて、記憶が飛んじゃっててね」
「馬鹿にしてるのか?」
「聞かないと、馬鹿にされてるかどうかもわからんのか」
 灰皿が飛んできた。俺はちょっと顔を動かして避け、スツールから滑らせるようにして尻をはずした。外で待っていたのか、物音を聞きつけてママの息子が店に駆けこんでくる。
「どうしたんですか」
「慎司、お前が言ってた野郎ってのは、こいつのことだろ?」
 オールバックは俺から目を離さずに言った。体だけこちらに向け、スツールからは降りない。
 慎司と呼ばれたママの息子が頷き、髪をかき上げた。長い髪の毛がかすかに濡れているようだった。雨が降り出したのだろう。年明けまで、天気が崩れると車のラジオで言っていた。
「ちょっと、店を出ようじゃないか」
 目を細めながら、オールバックが言う。睨むと言うよりは、俺を計っているといった感じだ。さきほどより顔から怒りの色が薄らいでいる。一瞬だけ見せた残忍な表情は、いまはどこにもなかった。チンピラでも、そのくらいの術は心得ているということか。
「店を出てどこへ行くつもりだ?」
「怖いのか?」
「質問に質問を返すのは馬鹿のすることだって、高校のころの担任が言ってたのを思い出したよ」
「ついでに海に沈めてやるから、そいつも連れてこい」
「ついでに、ね」
 俺は肩をすくめて笑った。喧嘩の経験はほとんどなかったが、負けるとも感じなかった。ここで殺されるのなら、それもいい。そんな気分になっていた。
 灰皿の中で燻って煙を上げていたラークを揉み消し、オールバックがスツールから腰を下ろした。身長は高い。一七三センチの俺と、頭ひとつ分違った。一メートルほどの距離を置いて、やや見下ろされるような形になったが、それでも恐怖心のようなものはなかった。自暴自棄になっているのとも違うと思う。
 オールバックの男がなにか言おうと口を開きかけたとき、店のドアが開いた。
 トレンチ風のコート。
「すまんね、待たせちまったかな」
 大袈裟に右手を上げながら、田崎が店に入ってきた。

 

 

 

つづく

 

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